尾林焼の歴史 | 五代目 水野英男 | 尾林焼 アクセス |
〜 尾林焼 (おばやしやき)の歴史 〜 |
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◆ 古くからのやきものの里 【古尾林焼】◆ 南信州飯田、龍江尾林の地は陶土が産出し古くから、やきものが焼かれていた。 |
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◆ 尾林焼のはじまり◆
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儀三郎は飯田藩主の命により開かれた藩の御用窯の陶工として、瀬戸より招かれた人物であったが、御用窯の閉窯後、陶土を求めて尾林に移り窯を興し、壺、鉢、甕、徳利などの日用雑器を焼いた。 (左写真 水野儀三郎作 白釉輪花鉢) |
◆ 多くの陶工で活況の尾林焼◆明治に入り、二代目高市の時代には、養蚕用の火鉢や製糸用の鍋など産業用の製品作りで好況を得た。近隣には次々と新しい窯が開かれ、各地より陶工が集まり、尾林はやきものの生産地として活況を呈した。 |
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当時の水野窯 |
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◆ 窯業の衰退◆ やがて養蚕、製糸業の衰退および輸送交通の発達により、尾林焼は地域の需要に応える地方窯としての役割を終える。 |
◆ 伝統工芸としての尾林焼◆しかし終戦後、工芸の価値が見直される中で、やきものは芸術の一分野として評価されるようになる。
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◆ 尾林焼 水野窯の系譜◆ |
水野 儀三郎 | 文政7年〜明治34年 | 春日井郡玉川村に生まれる。 嘉永元1848 年、堀親義に招かれ瀬戸から飯田風越焼へ。風越焼は堀親義・岩崎仁右衛門・ 源助が関与したが、明治5年、 磁器の材料が尽きてしまい、1852 年尾林へ |
水野 高市 | 安政元年〜 昭和11年 | 日用品のほか、製糸鍋、養蚕火鉢を制作。 |
水野 金作 | 明治7年〜 昭和20年 | 大正4年ころ、窯業の改良発展天を計るため、陶業組合を組織し、組合長となる。 |
水野 顕 | 明治35年〜 昭和58年 | 第二次大戦の最中、昭和19年に陶業者が統合され「尾林振興会」を組織。 土管、すり鉢等の大量生産を目指した。しかし終戦と同時に解散した。 |
水野 英男 | 昭和7年〜 平成26年 | 瀬戸の陶芸家岡部嶺男氏に師事。尾林焼の伝統を踏まえつつ、より芸術性、作家性の高い作品作りを目指した。 |
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◆ 水野窯以外の尾林焼-篆刻陶器や色絵などの新風◆明治30年代に儀三郎を頼って瀬戸から 移り住んだ加藤俊二は、 器に精巧な上絵 を描き、日用雑器中心の尾林焼に、色絵陶 器という新しい技法をもたらした。 |
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また明治35年(1902年)以降には、篆刻を学んだ千代の萩本陶斉、篠田得斉らが、器に文字を刻んだ篆刻陶器を焼くようになり、 大正8年〜10年 (1919〜1921)頃には 職人の多くが尾林から 分かれて天竜峡に移り、 天竜峡焼を興した。 |
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萩本陶斉作 陽刻茶器 |
〒399-2221 長野県飯田市龍江8132 |